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「しまね自然の学校」のスタッフに、いわゆる経済的な報酬はない。特別なプログラムのための外部講師や看護師、またライフセーバーなどには、常識的なレベルのギャランティーが支払われる。しかし、わたし自身も含め、その中核に専従体制にちかいスタンスをとるスタッフには、お金は一切支払われない。その理由は、当然、月二回程度の事業で関わるスタッフに給与が支払えるほどの利益など出るわけもないからに他ならない。収入は施設やシステムの維持と月毎の事業経費に大半が消える。
だが、これは、その事業を立ち上げたときに、誰もが理解できたことではあるし、少なくとも、これまで関わったメンバーにこれに疑問や不満を言うものはいない。しかし、だからと言って、われわれはこの事業を、いわゆる「ボランティア」などと考えてもいない。参加者からは、じつに島根県内ではもっともも高いだろう参加費をいただいているし、また、十五年という永い年月を関われば、ことさらにそれを言葉にするまでもなく、この事業は、関わる者それぞれの人生を賭した最も大切なライフワークになっているからだ。 だが、たぶん、こうしたことについて訪ねられたとき…。われわれのこの認識について説明しても、現代社会の産業主義的価値観の中に、働くことがイコール賃金に直結するべきだと信じてしまった人々に伝わらないに違いない。しかし、それで良いと思う。 われわれは、自分たちの社会認識こそが唯一無二だなどと考えていないし、また、われわれと同じスタンスに立たないからと、誰かを責める権利も義務もまるで感じていない。 たぶん、わたしは島根県内どころか、世界中のどこに行っても「しまね自然の学校の代表」だろうし、そう名乗れることが何にもまして嬉しいことである。そして、この思いは、わたしのみならず他の幾人かのメンバーにとっても同じだろう。少なくとも、そのミーティングのときなどに「しまね自然の学校」を「うちは…!」と言葉にすることができる者は、たぶん、全員が同じ思いを持つはずだ。 だが、正直を言えば、そのはじめにわれわれが明言したのは「俺たちだから出来るレベルで、出きるところまで続けようぜ!」程度のことだった。つまり「無理」と感じたらいつでも止めよう。そして、そのためには、関係行政も含め出来る限り外部からの支援を受けないで…。 つまり、われわれは、当時、自分たちが感じていた子どもたちの育ちの支援のための野外活動の歪みのさきに、自分たちならではのステージに「子どもたちの育ちの支援をする」ことに心地良いものを感じていただけに過ぎないのかも知れない。 しかし、このエゴにもちかいものに選択した手段や状況は、思いもしなかった有益なものを、われわれにもたらしてくれたようだ。まずは、高額な運営資金の捻出に、必然として「受益者負担」を意識できたこと。つまり「受益者」とは、参加する子どもたちと、「その支援を心地良いものと感じ楽しむわれわれ自身」である。 また、そうしたことの結果として、子どもたちを送り出す保護者との関係にも十分に洗練されたものをつくることができたようだ。つまり、一泊二日のキャンプに一万円を越える高額な参加費を支払って子どもたちを送り出す保護者たちは、「しまね自然の学校」がどのような団体であるか、懸命に、そして真摯に考えてくれたということである。 「自然の学校のスタッフと、私たちは親は、言うなれば共犯関係にあると思います」 ある保護者がおっしゃった、なんとも嬉しい言葉であった。だが、「しまね自然の学校」は、そのすべてのキャンププログラムに、参加はもちろん、そのフィールドに保護者が姿を見せることも許さない。理由は、「しまね自然の学校」は子どもたちに、いたずらに自然体験をさせているわけではないからである。つまり、そのプログラムはすべて、子どもたちがワクワクとドキドキを併せ持って主体的に向き合うことが出来なければ、その「こころ」にある意味危険極まりない「冒険」なのだ。ここに、保護者がいれば、子どもたちの主体性は一気に崩れる。そして、それがわずかに一組の親子の存在であっても、そこに生まれた「依存」のムーブメントは参加する子どもたち全員に影響する。 だけに、保護者の参加は許さないし、これまで、そこにどのような特例も認めて来ていない。つまり、参加する子どもたちが、いわゆる自閉症の子や身障者児童であってもだ。 じつに「共犯関係」を言葉にされたお母さんは、そのことを十分理解されていた。にもかかわらず、この嬉しい思いを言葉にしてくれたのだ。つまり、こうした状況は「子どもらの遊びの支援なのだからなるべき安くして、足りないところは行政の助成金を…」などと、安易に考えてしまえば断じて起こり得ないことだろう。現在の公教育環境に、いわゆる「モンスターペアレント」などという社会的な倫理観の欠如した保護者を生んでしまった状況などを考えても、この「受益者負担」の大原則について、われわれは、いま少し真摯に、本来的になにが大切なのかについて議論する必要があるようだ。 ともあれ、こうした「理解する保護者」との関係に、スタッフが手にすることが出来たものは「子どもたちの育ちの支援には、なにがもっとも大切にされるべきか」を純粋に考えられる状況であったのかも知れない。そして、これはつまり、その純粋な認識の実践のために、ときに「システムの運営のための論理さえ否定できる」ということだ。なんと凄いことだろう!。 現代社会の産業主義的価値観のもたらす弊害に、「シャドー・ワーク」や「コンヴィヴィアリティーのための道具」など、著名な著書を持つ思想家「イヴァン・イリイチ」が、人々の本来的な幸福のために、かのバチカンまでをも向こうに回して声を荒げつづけた「コンヴィヴィアリティー(生き生きとした共生)」な状況が生まれたのだと言えば言い過ぎだろうか。 いや、断じてそうだったと信じている。なぜなら、その結果として、この十五年のあいだに、三千人を軽く越える参加者があって、その子どもたちが誰一人としてトラブルことがなかったことの説明が、そう考えなければ成り立たないからだ。じつに事業の内容はすべて「冒険」なのにである。 また、その参加対象学齢を過ぎた子どもたちが、言うなれば、その「弟妹」ともいうべき子どもたちのために、つまり「ピアサポーター」として関わってくれる状況や、その保護者たちとの関係がながく続くことなどもそうした理解に解することが出来るようだ。 言うなれば、「しまね自然の学校」とは、現代社会の産業主義的価値観にいうところの「事業体」ではなくて、「イヴァン・イリイチ」が理想とした「コンヴィヴィアルなコミニュティー」であるのかも知れない。つまり、かつてこの国のどこにでも当たり前にあっただろう健全で健康な地域社会のような…。 ともあれ、こうした保護者との関係に支えられた「しまね自然の学校」のスタッフに、この上もなく嬉しくもあり利益するものは他にもあった。そして、それは現在に、かつてそうあったら良いなと考えた頼もしい次世代が生まれたことも当然にその一つ。だが、この十五年を支えてくれたものは、その心地良いものとは少し違う。 ときに号泣! また天使にも勝る笑顔を…。ときにその両方を併せ持って「しまね自然の学校」の「倶楽部はうす」に、駆け込んで来てくれた大勢のおおぜいの母の存在である。 ときに絶望と苦悩を…。ときに感謝と歓喜を持って、大勢のお母さんたちが「倶楽部はうす」を訪れてくれた。「救いを求めて…」。いや、断じて違う。この母という美しい人々は、それぞれのときどきの思いを持ち込むことが出来ると「信頼」して「しまね自然の学校」を訪ねてくれたのだ。 聞いて見たい!。 なりふり構わず号泣する子育て世代の女性に感謝された体験を持つ者が、現代という時代に、どれほど居るのかと…。そして、さらに聞きたい! その美しい女性たちの涙の理由が何だったのかを知る人はいるのかと…。 絶望も苦悩も、感謝も歓喜も…。そのすべてが、ただただこの美しい女性たちの我が子の育ちを思うおもいに基づくものなのだ。ときに不安に怯え、自らの未熟こそを嘆きながら…。誰を責める理由でもなく…。 これ以上に、美しく、麗しく…。そんなものがこの世にほかにあるか!。 『 二学期が始まり、子供達は元気よく小学校・幼稚園に通っています。 今年の夏休みは、今までの休みと違い、○○にとって満足感があったようです。○○は、学校で、この夏休み頑張った事として、『倶楽部はうす』まで、自転車に乗って一人で行った事を発表したそうです。以前、岡野さんから「○○君が一人で自転車で来れないかな」と言われましたが、最初は校区外の場所なのでどうかなと思っていました。ですが、思いきって行かせて良かったと思います。スタッフの皆様のご協力もあり、無事に一人で行くことが出来ました。ありがとうございました。 以前、私は、○○を相談所に連れていったり、担任の先生とも何度もおはなしに行っていました。小さい頃や、保育園の頃は、お友達に馴染む事が少し苦手で、何をするのもゆっくりとする子なんだと、あまり不安に思っていませんでした。それが、幼稚園、小学校となり、先生方の指摘もあり、ただ漠然と他の子と違うのではなく、少し問題がある子と、見方が変ってきました。そしていつも「○○君の為にお母さん頑張って・・」「もっとふれあって・・」「勉強も学校では時間が無いので、お母さんとして来て下さい」「私たちは出来ませんでしたが、お母さんとなら出来るかもしれません。」などの言葉に、不安も膨らみ、私自身「だめな母親なんだ」「頑張らないと・・」と、一人で空回りをしていたのかもしれません。 そんな時、『しまね自然の学校』のチラシを目にしました。岡野さんの、「子ども達には、誰の中にも、自ら「育とうとする力」が宿っているのです」という文章に、救われた思いがしました。○○に、自然の素晴らしさや、大人になった時いろいろな事で落ち込んだり、いやだなと思った時、子供の頃見て触れた自然を思い出し、頑張る力になってくれればと思いました。 大袈裟かも知れませんが、今までの様に「私が頑張らないと・・」とか、他に頼るだけではなく、○○自身が持っている可能性を信じて、自然の学校にかけてみようと思い参加させていただきました。 今、○○も私も家族全員が少しずつ変ってきたように思います。今までは失敗をはずかしい事と思い、挑戦する事を避けていた○○です。これが、毎回ではありませんが、失敗しても最後まで自分でしたり、手伝ってくれたり、人の気持ちを考えてくれたり、なによりも自分の気持ちを大切に意見として言えるようになってきました。私も家族も○○に頼んだり任せる事で、少しづつゆとりも出来ました。正直にいって、夏のキャンプの様子を聞いた時、そうかなと思っていた事、思っていた以上の事、ショックと驚きがありました。○○を特別扱いしたり、病人扱いしたり、知らず知らずしていたのだなと思います。でもおはなしをしてさっぱりとした気持ちになれました。 『洟をたらした神』の中に、「私が晴れ晴れしいのは家族の誰をも明るくする、母が持つ力に頼れる安心は、子供たちをあたたかい日向でたわむれる犬ころ同然の愛らしい姿に変える」とありました。私の心に残った文章です。吉野せいという人のどっしりとした力強さと温かみを感じ、まずは私がまわりにとらわれず、大きな気持ちで子供たちを見守って行けたらと思います。『洟をたらした神』の本は、もう出版されていないそうで、見つける事が出来ませんでした。すみませんがもうしばらくお借りします。 我が家にも中古のパソコンが来て、インターネットで『倶楽部はうす』通信を親子で楽しみにしています。今回8月18日付で自分の事を載せていただき、○○も、この自転車で行けた事が自信になったようです。とても喜んでいました。これからも親子で楽しみにしています。 ○○は新学期早々、血液検査を怖いからと拒否したり、物事を落ち着いてできない事がありました。でも少しずつ、自分でしたり、変化もあります。少しずつ時間がかかっても、本人に判断を委ね、出来ない時は一緒に考え、頑張ったりやり遂げた気持ちを大切にしたいです。 岡野さんはじめスタッフのみなさま、これからもよろしくお願いいたします。…』 「しまね自然の学校」に参加をはじめて、一夏を過ぎたころのある少年のお母さんからの手紙である。言うなれば、「しまね自然の学校」のこの上のない財産というべきものだ。そして、これはそのままに、われわれが「母」という美しい存在が、どれほどに深い愛を持って我が子を見つめるのかを見失わないために、その規範とするもっとも大切なものでもある。 「母」という存在は、これほどに凄いのだ!。 にもかかわらず、現代のこの国は、なぜ故にこの美しい人々から幼い子どもたちを取り上げることを子育て支援と考えるのだろうか。子どもは預かってやる。だから、お前は小さなお金のために働けと…。 この国の大人たちには、つまり「母」がおらず、その深い愛が子どもたちの育ちにこの上もなく大切に、かけがいもないものなのだと理解できないのだとでも言うのか。 まったく、理解しがたい不思議な話だ!。
by nature21-plus
| 2010-03-11 19:33
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