最新の記事
カテゴリ
全体 焚き火小屋のこと しまね自然の学校 瀟洒なる森の中で Linux design 島根日日新聞 田舎に暮らす 百姓をする女たち 日々雑感&たわごと 野外体験産業研究会 心象をスケッチする 伝える 焚き火小屋に火を熾して nob-san Brötchen ロケットストーブ ノブヒェン窯 ノブフェン募金プロジェクト OLD LENS フォロー中のブログ
登攀工作員日記 フランス存在日記 山瀬山小屋2号奮闘記!と... 楽・遊・学・ビバ人生!! おとうさん! ごはんなに? 染めと織りのある生活を楽... 山の子 田園に豊かに暮らす わざわざのパン+ かるぺ・でぃえむ 向こうの谷に暮らしながら 光と影をおいかけて TSUNAMI募金2 赤... すなおに生きる 木陰のアムゼル2号庵 フランス Bons vi... FC2ブログなど
以前の記事
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
この少し刺激的なタイトルは、ともすれば、これを目にする人に診療内科的な課題を連想させてしまうのだろうか。だが、わたしは自分が目撃し体験として理解したそれを、子どもたち一人ひとりのパーソナルなレベルの、いわゆる「症状」という言葉に捉えるべきではないと考える。確かに、社会心理学的な課題をもその範疇に意識するなら別なのかもしれない。だが、そういう理解の仕方をしてしまえば、この課題の本質的な部分を見え難くしてしまうと考える。状況を精査すれば、ことは子どもたちそれぞれがその育てられる環境の歪みに影響され、その育ちが未成熟な状況にあるに過ぎないと考えるし、その対処も、診療内科的な環境に委ねるべきではなく、子どもたちの誰の中にも当たり前に備わる「育とうとする力」にこそ委ねられるべきだと考えるからである。だけに、まずはじめに、ここにわたしが記そうとするものは、子どもたちそれぞれのパーソナリティーに由来するそれとは、少し違うのだ理解されるべきことなのだ。
ともすれば「好肉上に傷を抉る」にもにたこの文章を、なぜ書く気になったのか。じつを言えば、この「目撃し体験として理解した」それを、この数年、自らの意識の中に封印してきた。なぜなら、これをひも解けば、その課題の理解のプロセスに、ともすれば、本来的に傷付けてはいけない人々を傷付けかねない危険を感じていたからである。また、その感じた課題自体も、その単位として、いわゆる「社会的な状況」という言葉を使うことが妥当なレベルにあるのかどうか考えることもあったからである。そして、そこに感じられたリスクと、われわれの社会が本来的に持つだろう「社会力」の可能性を比較して、自らの意識の底に封じてきたのだ。 だが、しかし…。 パーソナルコンピューター端末をメディアをしてネットワークするインターネットの進化は、さながら覚醒する命あるものでもあるかのように劇的な進化を遂げる。そして、この新しいメディアは、これまでの我々の社会の情報ソースであった既存のそれとまったく違う、じつに大きな特徴を持っている。まずは、その情報を発信する者とこれを受ける者の間に不要に介在する第三者が居ないということが最大の特徴と言えるだろうか。また、その関係の相互性を意識しても、状況によっては、まったくタイムラグを感じることのないリアクションが可能であるということが特記すべきこととして挙げられるだろう。 当然、次は、そのネットワークのスケールに由来する。全地球的と言えばオーバーに過ぎるかも知れない。しかし、今日、パーソナルコンピューターを使ってこのネットワークに繋ぐことさえすれば、それがどの様な環境であれ、我々は自らの意志を持ってその情報を選ぶことが出きるし、そこに、県境や国境など既存の社会的枠組みなどもあり得ない。つまり、それぞれの暮らしに関わる有益な情報を得るに「距離」は消え、かつて「高群逸枝」が「世間並み,この言葉,呪われてあれ」と吐き捨てるように口にした「世間」をも大きく変化させるかのようだ。 そしてどうやら、その有益性は、ブログというシステムの発生によって、さらに進化し機能し始めたようだ。当然、微細な部分に目を向ければ、正常な社会倫理を解さない愚かな人々の悪意も無いわけではない。だが、冷静にこのシステムを見れば、これまでの既存のメディアには存在し得なかった情報の発信者であり、じつに洗練されたその利用者の存在に気付くはずだ。 つまり、女性たちである。さまざまな芸術文化・スポーツなどに関わることだけではない。女性たちのブログの利用の洗練は、じつにそれが、それぞれの暮らしに直結している。しかも、それは、コメントとそれへのレスポンスによって、さながら直接会って、小さな、しかし有益な情報を交換するかのようなレベルなのだ。 悲しいかな。 ともすると男性のブログの大半が自己中心的で、ときに傲慢とも思えるレベルの情報の垂れ流しであるに過ぎないことに比べれば、じつにこの女性たちのブログ利用の洗練は21世紀という新しい時代の建設にも大きな意味を持つものと注目するに値すると考える。 民族学者「宮本常一」がその数多い著書に記す、この女性たちに特有ともいうべきネットワークの利用の洗練に、この数年、子育てについての不安と、それに返されるコメントやレスポンスを注意して見てきた。 そして、結論から言えば、どうやらこの洗練は、「生きる」や「暮らし」に関わる事柄のすべてを「イヴァン・イリイチ」のいう「産業主義的価値観」に捉え、ときに子どもたちの教育までに「費用対効果」などという言語道断ともいうべき論理を持ち出す現代社会に、じつに大きく有益に機能し始めているようだ。パーソナリティーがパラレルに認められ、解され、尊重される時代といえば聞こえが良い。しかし、これは、ともすれば人々に「競うこと」を強いる社会であるのだろう。そうした時代に隣人関係の有り様はどんどん気薄になっていく。ここに若い子育て世代の女性たちの不安と混乱は止まるところがないようだ。 当然、これに様々なレベルの社会的支援が意識され用意される。だが、それらは、現代の子育て環境ならではのさまざまな課題を前にする若い母たちへの十分な支援になっているだろうか。ともすれば、その状況は精査・熟考されず、いたずらに支援者の側の自己満足と、ときに責任回避のためだけでしかないと思えるレベルの状況もありはしないか。そうした若い世代に、じつに丁寧に、そして優しく穏やかに支援するのも出きるのも、同世代や子育てを終えた世代の女性たちだ。これは、自らを痛め、その腕に幼児を抱きしめた体験を持つ美しい女性たちならではのなせることであるのだろう。 ただただ、これに感動する以外に術がない!。 つまり、こうした状況を理解して、この十五年を子どもたちの育ちに関わる体験教育事業体を組織し、さまざまに体験し理解してきたことを役立てることが出来ないかと考え、この「焚き火小屋の備忘録」というタイトルのブログをはじめたのだ。 だが、そうした女性たちの「感情と感覚と女性ならではの感性によって紡がれるネットワーク」に、じつは「論理的にしかものを考えられない」男であるわたしなどが容易く入れるわけもない。ちなみに、こうしたことを書けば、必ずや女性たちを侮辱の対象として捉える馬鹿がいる。とりわけ、ある種の社会システムの上に自称「勝ち組」気分であぐらをかく馬鹿者である。その帰属するシステムのベーシックな部分こそが「イヴァン・イリイチ」のいう「シャドーワーク」のような女性たちの真摯に支えられていることに気付かずにだ。 ともあれ、わたしに出来たことは、さきにも記したように「しまね自然の学校」の十五年に理解したことや、その関わりにまとめた小さな拙文の類を片っ端からブログにUPすることだけだった。そして、結果、嬉しいことに最近、そうした女性たちのネットワークの片隅ぐらいに小さな居場所を見出すことが出来たのかも知れない。 じつに最近、いわゆる鍵コメントが多い。そして、その半数ぐらいが「幼児教育」というべきジャンルの子育てに関わることなのだ。そして、そのコメントのやり取りに解するものを考えれば、その大半に子どもたちやその母である女性たちには問題など見出せず、ただただ、子どもたちの育ちを取り巻く社会的環境の側にこそ課題が見出せる。 そして、にもかかわらず、女性たちは、「おかあさん!頑張って…」などと、自らの重責を理解しないシステムの側に投げ出されたものを前に、ただただ不安と混乱の最中にあるようなのだ。 これにわたしなどがどれほどのことが出来るかなど解らない。だが、「理解し、感じる者こそが、何かをはじめなければ、現代のこの劣悪ともいうべき子育て環境は変わらない」。つまり、こうした思いから、この「能面のような子どもたち」をここに書いてみる気になったのだ。 ーーーーー この体験教育事業は、ある地域行政の広域合併協議会からの依頼に始まった。これを簡単に言えば、海浜部から市街地を経て山間部までの広い行政エリアと抱えるその地域行政の夏休みの子どもたちを対象にした市民サービス事業の一環であった。さながら「海の子。山の子。元気な子!」とでもタイトル出来そうな、子どもたちのエリア内交換交流事業である。これにある離島の子どもたちを招待するかたちで事業のデザインと実施の依頼を受けた。 参加児童は公募であり、必然としてその居住域もバラバラである。プログラムは3泊4日。フィールドは、ある意味無人島にもちかい美しい島根半島のウィルダネスな「深袋の海」。その自然環境の素晴らしさは、沖縄・西表島の崎山湾などをスケールダウンして考えてもらえばイメージしやすいのかもしれない。ともあれ、小中学生を対象にした体験教育事業の環境として、その質の高さは、多分、全国的なレベルに探してもその類例を見ることは難しいに違いない。 一応、地元の大学の教育学部の教員などにも参加してもらって「実施主体」を立ち上げた。だが、そのプログラムのデザイン・ベースは、「うさぎの子って誰さ!」という「しまね自然の学校」の夏のスペシャルプログラムである。だけに、その環境に存在するリスクも、参加する子どもたちの感じるだろう「ワクワク」も「ドキドキ」も、すべてのスタッフが十分に予想し理解しているはずだった。 事実、そのフィールドに入り、子どもたちの大半がその「神々のなせる技」どころか「神々のいたずら」とも思えるほどに美しい海に遊びだすまで、すべてが順調に動いていた。ただ、少し挙動がおかしい4人の女の子を除いて…。 正確に言えば、二人づつ、手を繋いだ二組の少女たち…。 「深袋の海」は、その幅が五十mほど。透明度の高い海が、小さな砂利の浜から三十mほどになる最深部までの三百mをその幅のまま遠浅になっていく。言うなれば縦に長いクリーク状の湾である。ここに子どもたちは、四人のライフセーバーのサポートを受けながらシーカヤッキング、シュノーケリングなどなど、思いおもいに遊びはじめた。だが、この二組の少女たちは、水着に着替えるでもなく。水際からすこし離れて、ただただ立ち尽くすだけなのだ。 これに気付いたスタッフが声をかけるが、その青く白い顔が無表情のまま、まったく反応しない。 参加児童の資料を確認すれば、四人とも、ある山間部の町の子どもたち。しかし、資料によれば全員が三十m程度なら泳げるはず。さらに、保護者からの連絡事項には「きれいな海で泳ぐことをとても楽しみにしています。」とあった。つまり、四人とも泳げないわけではないらしい…。 しかし、「しまね自然の学校」のスタイルに、いわゆるプログラムメニューに「強制的」はあり得ない。気をきかしたクライミング担当のスタッフがこの子たちの関心を引くため、水際の大きな松の木に、振れ幅が十数mはありそうなブランコをセットした。当然、これに子どもたちは歓声をあげて群がりだす。中には、そのブランコから宙を飛んで海に飛び込む遊びをする子などもいた。だが、その無表情な二組の女の子たちは、これにも微動だにしないで、ただただ立ち尽くすだけ…。 そうこうするうちに、ランチタイムの準備を前に子どもたち全員が集まられ…。つまり、三・四人づつグループ分けがはじめられた。しかし、ここでも「しまね自然の学校」に「強制的」はあり得ない。子どもたちは、午前中の遊びの中で、それぞれ仲良くなった子供同士が勝手に群れる。だけに二人のグループも有れば六人ぐらいになるグループもある。だが、あの女の子たちはここでも無表情になんの反応もない。つまり、結果として、この四人はそのままに一つのグループとなる。 そして、それぞれのグループに、スタッフや「しまね自然の学校」のピア・リーダーの子どもたちがサポートしつつ賑やかに昼食の準備がはじめられた。そして、あの無表情な女の子たちのグループもその動きに加わりはじめたかに見えた。 しかし…。 何とかスタッフのテントに食材を取りにいって…。その後が、五分と保たなかった。 受け取ってきた食材を抱えたまま、まずは一人の女の子が泣きじゃくり出した。そして、これに連鎖して、その子とずっと手を繋いでいた子が「お腹が痛い!お腹が痛い…。」と、こちらは号泣である。あとの二人は、サポートに入っていたスタッフの困惑を相変わらず無表情に見上げている。 泣きじゃくる二人は看護師の詰める救護テントに…。残された二人は、スタッフのターフの下で出された食べ物を寡黙に食べ出した。 そして、昼食も一段落して、子どもたちも午後のプログラムに動き出して…。四人の様子を見にいけば、看護師さんの優しさに少し落ちついたようだ。無表情は消え、女の子たちは全員が仲良くベットの中。看護師さんは「熱も無いですし…」と困惑気味だったが、緊張から少し疲れが出たのでしょうと、しばらくそのままにするという。 しかし、この子たちが、さながら何かを「reset」するかのように突然に泣き出して、そのすべてを投げ出したこの時点で、二人の女の子たちがすべてのプログラムが終了して帰る日の朝まで、このままになるなどととても予想しなかった。 ≪ 「能面のような子どもたち」 ( なぜ!おかあさんにうそを…)に続く ≫
by nature21-plus
| 2010-03-05 20:31
| 伝える
|
ファン申請 |
||