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半年ほど使わなかったエンジン式の溶接機が起動しない。本来的に野外での使用が想定されたものとは言え、メンテナンスもせず、野ざらしにもちかい環境に置いてあったことが災いしたようだ。
これを、どの程度痛んだのか知るために、その外装を分解してみた。むき出しのコードの類の劣化はやむを得ないとして、内部の電装部品などは思ったほどに酷くはないようだ。しかし、エンジンスターターがまったく反応しない。 見た目に目立った問題は見当たらないが、どうにもバッテリーが完全に自然放電をしてしまっているらしい。とりあえずガソリン・ラインのクリーニングとオイル交換をして、車のレスキューキットを使って起動してみることにした。 考えれば、わたしの田舎暮らしは「溶接をする」作業に終始する。この二十年を、日常的にその相棒とも呼ぶべき「溶接機」とともに過ごしてきたようだ。その住まう「倶楽部はうす」や「焚き火小屋」の改装をはじめ、そこに必要なテーブルや椅子などから調理に使う道具類までをこの溶接機を使って作ってきた。つまり、自らの暮らしに必要なものの大半を「鉄」を素材に自作してきたということになる。 「鉄」を素材に暮らす…。 いまどき、都市に暮らす人々には、その意味するところがかえって見え難いことなのかも知れない。しかし、現代社会の人々の暮らしとは、もはや、この「鉄」なくして成り立たないレベルにあるはずだ。つまり、いわゆる「特殊鋼」などとも、その「鉄」の先にあるものだと言えるのだとすれば、それは、数え上げることなど出来ないレベルに人々の暮らしに深く関わるのだ。 そして、そのもっとも解りやすい例が、つまり「車」なのだろう。 現代の産業主義的なロジックは、じつに巧妙に、この「車」という道具に、経済学的な資産としての価値があるかのような錯覚を、人々に与えることに成功したかのようだ。人々は、まるでそれが高額な衣料品や、やっと手に入れた高級住宅でもあるように、その表面を磨き上げることに余念がない。これを馬鹿げているとまでは言わない。だが、溶接機を片手に、若い世代の自慢げな様子を見ていると情けなくて、少々悲しくなる。 まあ、確かに、価値観とは人それぞれに違うのだろう。だが、それがどの程度に情けないことなのかを理解するために、一度、その車の塗料を全部剥いでみれば良い。出てくるのは、良くぞここまで薄くしたと言うレベルの二次利用などまったくできそうもない「鉄くず」であるはずだからだ。 ちなみに、わたしはこの二十数年をラダーフレーム構造の車に乗り続けている。当然、その理由は、溶接機を使うほどの修理やメンテナンスが簡単に出きるからだ。だけに、現在のジムニーも、ときどきサビ止めのためのペンキは塗るが、ワックスなどをかけたことはない。 都市に暮らせば、その限られた条件やルールの中で、個性やオリジナリティーを主張することがなかなかに難しい。ひっきょう、人々は「モダン」と言う言葉に翻弄され「限られたものの中から選択する」しか許されない。つまり、ここに「作る行為」は、ともすると「無駄なことだ」と捉えられかねないほどに、難しいことであるようだ。 だが、しかし、溶接機を片手に過ごしたこの二十年を振り返ってみれば、本来的に田舎に暮らすとは「作ること」だと言っても過言ではないようだ。ときに「造り」、また「創ろう」という意識を持つことが出来なければ、つまり「田舎には、何もない!」と理解するほかになくなってしまう。 しかし、現実には、島根のような豊かに美しい農山村風景の中での暮らしにも、些細な便利を隠れ蓑に、地域から「個性やオリジナリティーを排除する」産業主義的価値観が蔓延するようだ。結果、人々が丁寧に育み育てた里山などの莫大な資源が価値のないものとして見向きもされず、大型量販店に並ぶゴミにも似た規格品が大手を振ってまかり通る。 その理由は「農林業環境が機械化された」ことによるようだ。つまり、その暮らしや仕事のためのさまざまな道具類が、それぞれの地域の風景や風土や社会環境とのバランスが熟考されず、いたずらに生産性の向上だけを意識した「工業製品化」が推められたことに因ると考えるべきであるようだ。 この社会的な変化は、農山村から、「人々が、その風景や風土にあった暮らしに必要なすべての道具を自ら作る」という途方もない時間をかけて育まれてきた文化を破壊し尽したようだ。とりわけ、村々から「鍛冶屋」が消えたことは、その大きなきっかけになったのかも知れない。つまり、刃物などの「鉄」を扱う技能者が農山村から消えたのだ。 農林業の機械化が進められ工業製品が農山村に入ったことで、まずは「鍛冶屋」が食えなくなった。そして、このことが、人々から「自分の手に合う道具」を取り上げる。ちなみに、工業製品とは、いわゆる「鍛冶屋」が作る「巧者な人の手に合う道具」に比べてみれば、圧倒的にそのクウォリティーが落ちるのだ。 どころか、すべてのもの作りの原点とも言うべき「良く手に馴染んだ刃物」を手にすることができなければ、暮らしに必要なものを自ら作るなど出来なくなる。 わたしが上津に転居して、はじめに関わった地元の方は、壊れた「鍬」を持ってきた近所の古老である。つまり、「これ、なんとかならんかね!」と…。そして、次は「出刃包丁」の修理である。 いわゆる農業用の刃物の鍛造が主な「鍛冶屋」の仕事に比べ、「溶接」という技術は圧倒的に「工業製品」の加工や修理に有利なようだ。だが、この技術は、主に規格品を生み出す工業環境に関わらなければ、つまり「業」として成り立たない。だけに、残念だが、この技術を持つ者が、かつての「鍛冶屋」のようなレベルに農山村に暮らすことは難しいことだろう。 だが、鍛鉄・鍛造によって刃物などを作る「鍛冶屋」の仕事に比べれば、わたし程度の溶接技術の習得はさほどに難しいことではない。出来れば、田舎に暮らすなら、この溶接に技術を手にすれば良い。つまり、その暮らす風景や風土との関わりを大切に、自らの個性やオリジナリティーを主張することが可能な新しい田舎の暮らしのためにである。 ちなみに上の写真は、知人が届けてくれたお手製のスモークベーコンを美味しくいただくために作ったグリルパンである。こうしたものが、溶接の技術がそれなりに身につけば、一時間もあれば作れてしまう。 また、これまでに「薪」を燃料にする「パン焼き窯」や「かまど用のグリル」など、本来的にこの国の農山村に無かったものを幾つか作ってみた。そして、これらがじつに新しい時代の田舎暮らしの可能性を感じさせてくれるのだ。 これから新しい田舎暮らしを意識する人々に、ぜひ「溶接をする」技術を身につけて欲しいものだ。 ともあれ、わたしの田舎暮らしの相棒ともいうべき「溶接機」の修理が済んだ!。
by nature21-plus
| 2009-12-13 00:00
| 田舎に暮らす
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