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「村里家居近き山をさして里山と申候」
文献上、「里山」という言葉が最初に現れるのは、1750年代に尾張藩が作成した「木曽御材木方」という文書においてだそうだ。しかし、この「里山」を、現在のような言葉として、使い始めたのは京都大学農学部の教官を務めた四手井綱英だと言われる。 里山は、さまざまなかたちで利用された。落ち葉や下生えは田畑の肥料に利用され、また農作業の合間に里山に入って薪やキノコを採ることは、かつて農山村の人々が現金収入を得るにもっとも簡単な方法であったのだ。 また、近年(戦後ぐらいのこと)では、地域の公共施設の整備のためなど、緊急時の木材・現金供給源を兼ねた水源涵養林として意図的に森林の伐採を行わない里山もあったと聞く。 しまね自然の学校が、15年前に、その活動を開始した場所は大社町鷺浦(現出雲市)の「深袋湾」である。5泊6日の初日を、当時すでに廃校になっていた旧鷺浦中学校に現存する体育館にすごしたのだが、ここに当時の区長さんがご挨拶にみえられた。 聞けば、その体育館も現在の「鵜鷺小学校」も、われわれがキャンプをした「深袋湾」の奥の共有地の森を伐採してその建築資金に当てたのだという。その後30年ほど、地元の者も入ることはなくなってしまったが、そこは鷺浦の者にとって大切な森であることをよくよく学んで欲しいと子どもたちに話されておられた。 また、民俗学者 宮本常一の著書「塩の道」などを見てみれば、古い時代の珍しい里山の利用法として製塩の為の燃料の供給というものもあるそうだ。こうした里山は塩木山と呼ばれたという。製塩は大量の燃料を必要とするために、製塩業者にとって塩木山の確保は死活問題であったのだそうだ。 薪を生産するのは河川によって塩田と結ばれた上流部の山村である。つまり、山間地の村々が里山の木を薪に加工して商品として売るのである。里山が村内の自給自足経済のためにのみ利用されていたのではないことの好例であるのだろう。 ちなみに中国山地の里山は、こうしたことの他に、いわゆる「たたら」製鉄用の燃料や陶磁器焼成の為の燃料として、大量に消費されたことは言うまでもない。 また農村の里山の利用法に「草山」があった。これはある山の樹木を意図的に皆伐し、山全体を草のみにしたものである。近世の水田耕作では枯れ草が重要な肥料であったために、その農業に必要な枯れ草を賄う草山が設定され、樹木を生やさないように管理されていたのだ。 我が焚き火小屋の近くの里山に「おおはげら」という地名が残る。現在では地元の古老に聞いても、そのいわれは伝わらない。だが、つまり、そういう入会地であったのかも知れない。また、「加茂町史」(加茂町 現雲南市)などによれば、そうした入会地の草刈りを巡って、現代に暮らす者には思いもしないような大きなトラブルも起きているようだ。 昭和30年代の、いわゆる「燃料革命」以前の里山への負荷は一貫して高く、それぞれの村がその植生崩壊を防ぐためにさまざめな規則を作って対応したようだ。つまり、「村掟」「村定」などと呼ばれ、入会地を持つ村であれば大半がこの種の規則を文書として備えていたという。 ここに定められる規則はじつに詳細でかつ厳密なものであったようだ。例えば、肥料用の草は、刈り取って良い量が家ごとに決められていることも珍しくなかったし、その刈って良い時期も厳密に設定されていたようだ。特に住民の数に対して利用できる里山が少ない地域では、その管理は厳重なものであり、許可されていない場合は草を一掴み刈り取ったり、木の枝を一本折るだけでも罰せられる場合すらあったいう。 つまり、近世の里山とは決して人々の暮らしと自然が調和したユートピアなどではなく、村落共同体が厳重な管理体制を敷かなければその維持が成り立たないほどに利用され尽くしていたのである。 歴史を遡ると、近世までに、その里山の大半は、その本来の植生が木材や薪の切り出しによって失われた。また、落ち葉なども田畑の肥料として搬出されてしまったために、痩せた土地でも生きられるアカマツが優勢となってしまっていたのだという。またアカマツは近世日本の農業にとっては非常に使い勝手が良い樹種でもあり、好んで植えられたということもあった聞く。 しかし石油やガスなどや化学肥料の農山村への普及によって里山の経済価値が見失われ、つまり、人の手が入らなくなった里山の植生はアカマツ林からさらに変化しているのだそうだ。 とりわけ近年では、放置された孟宗竹の竹林が無秩序に拡大して落葉樹林や広葉樹林を竹林に変えてしまう被害も、里山の植生や、農山村に暮らす人々の健康にまで影響するレベルにあり、無視出来ないほどに大きなものとなっている。 しかし、驚いたことに、里山を人の手になる「ニセモノの森」とみるみかたがあると聞く。つまり、これは、自然保護の立場から、その地に潜在する自然植生を重視する考え方であるのだろう。 自然保護やいわゆる環境保全という認識を理解しないわけではない。だが、「里山」の歴史や現状をまったく理解しようとせず、いたずらに、その些細な感情論にもちかい認識を持って、こうした言葉を口にする「馬鹿者ども」の気が知れない。 極論を言えば、この国の文化とは「山」に支えられあったのだろう。そして、その「山」とは、営々として農山村に暮らした人々の手になった「里山」だったはずなのだ。 現在、その「里山」が荒れるにまかされている現状は、「石油」という限りある資源を、限りあるものと認識したがらないおろかな人々の「錯覚」によるものだ。 現在、この国の食料の自給率はおよそ40%を割っている。(ちなみにこれはカロリーベースの話である。実際的には、これをはるかに下まわる。)燃料の自給率に至っては、驚くべきことに5%にも届かないのだ。これは、かつて「里山」が、現在よりもすこし健全だった時代には考えられないことであるだろう。 しかし、そうしたことも「気付こうとする意志のない者」には理解することなどできないことであるようだ。 写真は、しまね自然の学校が主催して、この春以来続けている「ワークショップ「山守」」と題した里山の保全活動のそれである。次世代を担う子どもたちの育ちの環境としても、この上もなく有意義で大切な「里山」に、場所によっては、ツツガムシ、日本赤斑熱などなど、いわゆるリケッチア系の感染症の危険までが出てきているのだ。つまり「里山」は、そういうレベルに荒れているのだ。 これに気付いて、断じてそれを捨て置けない!。 町に暮らせば、まったく気付くことのないだろうこうした事実を、その気付いた自らこそが動くべきだとはじまった活動である。 確かに、一人ひとりに出きることなど知れている。だが、しかし、荒れる「里山」の現状は、もはや「人が、本来的に環境との関わりに生きる本質から脱線したくだらない議論」など許さない状況にある。 一人でも多く、「里山」に入るべきなのだ!。 そして、一人でも多く、「里山」が、われわれの「生きる」に如何に有益であるかを知るべきなのだ!。
by nature21-plus
| 2009-11-16 00:01
| 瀟洒なる森の中で
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