最新の記事
カテゴリ
全体 焚き火小屋のこと しまね自然の学校 瀟洒なる森の中で Linux design 島根日日新聞 田舎に暮らす 百姓をする女たち 日々雑感&たわごと 野外体験産業研究会 心象をスケッチする 伝える 焚き火小屋に火を熾して nob-san Brötchen ロケットストーブ ノブヒェン窯 ノブフェン募金プロジェクト OLD LENS フォロー中のブログ
登攀工作員日記 フランス存在日記 山瀬山小屋2号奮闘記!と... 楽・遊・学・ビバ人生!! おとうさん! ごはんなに? 染めと織りのある生活を楽... 山の子 田園に豊かに暮らす わざわざのパン+ かるぺ・でぃえむ 向こうの谷に暮らしながら 光と影をおいかけて TSUNAMI募金2 赤... すなおに生きる 木陰のアムゼル2号庵 フランス Bons vi... FC2ブログなど
以前の記事
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
大変に貴重な写真をありがとうございます。お送りいただいたデーターをローカルに取り込んで、フルスクリーンで拝見して、自分がどれほど無礼な願いごとをしたのか、あらためて理解しました。何年も前から、この壁に関わる思いが自分の中にくすぶり続けていました。このスピリチュアルなものがなんなのか、自ら俯瞰するために、文字か、それともディティールなのかすら決めかねていたにもかかわらず、なにか目に見えるかたちにまとめてみたいとずっと考えていたのです。これが、日々に追われて、これまでならずにきました。 ここに貴君の「西壁」の写真に大きな刺激をいただきました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、考えて見れば「明星山P6南壁」は「我が青春の山々」そのものなのです。歓喜と、狂気にもちかいものが同時にあった、忘れえぬ場所でもありました。 時間が30年ぐらい逆流するような思いの中に、ただただ呆然としつつ拝見しました。そして、こころの中に、この30年にわだかまっていたものが解けた気がしました。これを書き記すことに意味などないかも知れません。しかし、ここに生きた者に「与えられたこと」と解して、するべきことがあるのかも知れないと考えています。自らの climbing への思いと「壁」という「場所」に感じているものについて、ささやかな文章にまとめたいと思います。 これが、貴君の「西壁と南壁」の写真を見つめながら、自らが出せた結論です。 --------------------------------------------------------------------------------------- 「…太古の雫が「した した した」と垂れる塚穴の底の岩床にめざめたのは、死者である。この死者は射干玉(ぬばたま)の闇の中で徐(しず)かに記憶を呼び戻し、かつての耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。…」 折口の『死者の書』などを気取るつもりはない。ただ、この壁に逝った者や、森や、黒沢あたりとゆめまぼろしの中に宴して…。今朝の「目覚め」は、この壁の記憶が「した した した」と、垂れるかのようなのだ。 明星山P6南壁左フェースルート…何ピッチ目だったかなどとうに忘れたが、ある新人がこのルートで身動きできなくなって、この写真が撮られたあたりにハイビームにした車を数台並べ、そのライトの明かりを頼りに降ろしに行ったことを思い出した。その前の年の秋に、なにを狂ったかソロをして落ちた者がいて、自分は、そのメモリアルルートを右ルンゼF1から右石稜に繋ごうと開拓していたのだ。 ちなみに、その左フェースルートのトラブルの翌年には、このメモリアルルートの開拓にかかわった者が、右ルンゼF1の正面ぐらいの林道から車ごと数十メートルを落ちて…。このとき、自分は、右石稜から長谷川恒男さんのフランケに繋ぐルート(これは『岩と雪』の「日本のビックルート24」に掲載した)を登るつもりで壁の中にビバークの準備をしていたのだが…。結局、右ルンゼF1のラッペルを終え、この若い仲間を見つけて深夜の小滝川の流れに翻弄されながら、そのむくろの搬出を終えたのは朝方だった。 「おかのさんでしょ…!助かった…!!。」 彼は、この耳に生涯消えることなどないだろう、最後の言葉を残してくれた。我が、なすすべもない腕の中に…!。 この世に「神も、仏も、『善』も『邪悪』さえもあり得ない!」のだろうことを知覚した。ただただ「事実」こそがあるのだと解したのだ。そして、「事実とは、なにか…!」について考える意義についてもだ!。 しかし、思えば、この「明星山P6南壁」には、常に、歓喜と狂気が同時にあった。 はじめてこの壁に触れたのがいつだったかなど、覚えてもいない。しかし、谷川や穂高など、それまでホームグラウンドにしてきた山々のそれと違って、信じられないレベルのフリクションの凄さに歓喜した秋の半ばの記憶がいまでも残る。 また、厳密に言えばここもそうだと言えるのだろうが、日本の岩場は、一部をのぞいて大半が沢の側壁である。だけに、そのアプローチが長かったり、重装備になりがちな登山的要素が強かったりするのだが、この壁はちがった。車を使えば、キャンプサイトに着いてすぐ目の前に壁があるし、鉄道を使っても、大糸線の小滝の駅から瀬野田の集落を歩いて一時間程度なのだ。つまり、他のクライミングエリアと違って、「アルピニズム」というの概念の呪縛から開放され、カウンターカルチャーとでも言うべき新しいクライミングのためのステージ足り得たのだ。 時代もまた、その新しいクライミングのムーブメントに味方した。わたしは、この明星山の岩場に、いわゆるアルパインスタイルのクライミングのツールを持ち込まなかった。つまり、意図的に、ハンマーやハーケン、そしてクライミングブーツさえをも、この壁に使うことを嫌ったのだ。そして、これは別段、当時のメディアが好んで使っていた、いわゆる「ヨセミテ派」などを気取ったわけではない。この壁の、石灰岩に特有のフリクションの凄さに魅せられていたからにほかならないのだ。また、未だ国内のほかの岩場に知られていなかった「クラック・クライミング」の楽しさも、心地良かったのだと記憶する。 そして、たぶん、こうした新しいクライミング概念を持って、はじめてこの明星山に開かれたルートは、わたしが、二人のパートナーとともにP2西稜末端壁に攀じった「フラートス・ウェルヌス(春の息吹)ルート」だと記憶する。(いかなる理由に因るのか解らないが、現在、このルート名は「春の息吹ルート」となっている。だが、五月の明星山の爽やかな風の吹き抜ける心地良さの中に、完登できたことを感謝しつつ、われわれがつけた名前はラテン語で「春の息吹」を意味する「フラートス・ウェルヌス」なのだ。ちなみに命名者は、「生と死の分岐点」ピット・シューベルト/著 の訳者としても著名な黒沢孝夫だ。もっとも、すでにその和訳が定着しているのに、これに混乱を招くような馬鹿げたことなど意識しないが、正しくはそうなのだ。) ちなみに、このルートを初登したとき、下部のフェースに残置されていた古いリングボルトをのぞいて、いわゆる「プロテクション」にボルトやハーケンの類はまったく使っていない。「プロテクション」はすべて、当時のショイナードのヘキサゴンやTチョックの類だ。ただ、核心部のクラックを終了したところと登攀終了点に、登攀の証明のために計3本を残置した。 われわれが、こうしたクライミングスタイルを選択した理由は、1970年代、ロイヤル・ロビンスらによって提唱されていた「クリーンクライミング」の持つ自由な精神にどこか強い憧れを持っていたからに違いない。しかし、そうした憧れを実践し得たのは、この明星山に、さきにも記したように新しいクライミングのためのフィールドたり得る状況があったからに他ならない。 ともあれ、結果として、この岩場で、その精神性はどんどんフリーになっていく。そして、そうしたムーブメントに決定的な結果をもたらしたルートは、明星山の正面壁とも言うべきP6南壁に、「森徹也」らが開いた「フリー・スピリッツ」と「マニュフェスト」であるだろう。 ちなみに、「森徹也」は、わたしにすれば弟子とも、弟分ともいうべき存在なのだが、そのクライミングスタイルは、わたしのそれとはまったく違う。彼は、わたしの影響から脱したあとに、モンブラン山群の「フー針峰 南壁」や、イタリアの「マルモラーダ」の石灰岩地帯などでのクライミング体験を通して、言うなれば、アルピニズムを否定したヨーロッパの新しいクライミングの影響を強く受けている。 その結果が、当時のこの国のクライミング界に、現在のフリークライミングという概念を発生させる一つの起点をなした「フリー・スピリッツ」と「マニュフェスト」というルートを攀じらせたのだ。つまり、彼にも、そのクライミングの原点がこの壁であったことに大きな意味があったといえるだろう。 彼は、この二つのエポックなルートの登攀のあとに、そのクライミング活動の大半を停止する。彼自身が語ったわたしの記憶が正しければ、それは大学卒業後の就職にあったはずだ。彼は、モンブラン山群とマルモラーダの体験のさきで、自らの人生の舞台を、この国の中ではなくて世界に向けていた。事実、その後に、サン・マイクロシステムズというコンピューター関係企業の有能なビジネスマンとして10数年を米国に過ごしている。 ともあれ、彼のそうした決断に、わたしは生かされたようだ。 森が、「フリー・スピリッツ」を意識したころから、わたしは、彼とザイルを組むことを止めた。これは別段、さきに記したクライミングへのそれぞれの思想の違いが影響したわけではない。どころか、これを言葉にしたわけではないのだが、わたしは、彼にクライミングを止めて欲しかったのだ。なぜなら、彼に死んでほしくなかったからだ。 当時のわたしのまわりには、多くの遭難が続いていた。にもかかわらず、森は、当時、その展開するクライミングの難易度が徐々に上がっていた。 所属する同人で、わたしは当時、彼らのチーフリーダーでもあった。だから、彼らが、山に行く前にはかならず電話があった。これに「おおぅ…!。」と答えながら、じつは、次に彼らの声を聞くまで眠れぬ夜を幾夜も過ごした。 彼のスキルやそのモチベーションの凄さを信じないわけではないし、断じて、彼の存在を認めないわけでもない。あくまで、これは、わたし自身の「おびえ」にも似た内的なものに由来する。 だけに、就職のためにしばらくクライミングを止めると彼が言いだしたとき、救われた気がした。そしてその後に、わたしは自身のクライミングのすべての道具を森に託した。「そろそろ真面目に働こうと思う!ついては金が欲しい…!。」と、その処分を頼んだが、彼は、腑に落ちないものを感じていたようだ。 これは確かに、二度と山に戻るなと言うわたしの彼へのメッセージだった。 ともあれ、これでとりあえず、わたしは「明星山P6南壁」の悪夢から開放された。そして数年のあいだ、自身もクライミングから遠ざかったのだが、同時に、小さななにかが自身のこころの中に生まれてしまっていたようだ。 そして、課題はこの「なにか…!。」なのである。 ともあれ、自身の記憶のこの壁に関わることを、整理もせずにざらっと流せばこれまでのことである。 これらを「封印した!」つもりだった!。 しかし…!。 「人は、その感じ知る他者との関わりに生きている!。(ちなみに、この他者とはいわゆる「人」であるとは限らない…。)」 こんな一文を、新聞のコラムだったか講演資料だったか、ともあれ、なにかに書いた。そして、書いたところで、ふと感じたのが、「なぜ自分はこんな考え方をするのだろうか!?。」ということだった。事実を事実をして捉えることに意義あることは解していたが、意識もせず、この当たり前を言葉にする理解を、自分はどこに学んだのだろうと考えたのだ。 ある年、フランスに古い知人を訪ねた。バルチゼールというスキーリゾートで賑わう田舎町の初夏のころだったが、3ヶ月ほどを居候するうちに、知人が、わたしをクライミングツアーに誘ってくれた。 北イタリアの「マルモラーダ」に…!。 「明星山P6南壁」の大岩壁を無尽蔵に連ねたように、しかし、モンブラン山群のそれとまったく違う風景に圧倒された。しかし、とてつもなく明るいその風景に、かつて森が感じたものを理解した気がした。そして同時にこれは、森の「スピリチュアルなもの」を解さないままに自身の思いを押し付けていた自分の存在の気づきでもあった。 「懺悔だな!。」という思いと、では、あの「壁」への自分の「スピリチュアルなもの」とは何だったのだ!という疑問が、新たな「なにか…!。」に姿を変えた。 フランスから戻ってすぐに、幾つかの花束を抱えて久しぶりに「明星山P6南壁」を訪ねて数日を過ごした。遠い記憶の壁の中に、点景となった自分がいた。 この「スピリチュアルなもの」について、未だ解することが出来ないでいる。ただ、そのなにかに揺さぶられるときには「ここに帰れば良いのだと…!。」理解した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ※写真はすべて「登攀工作員日記」の管理をされるmezase8aさまに大変なご無理をお願いして、ご理解と嬉しいお許しをいただき、感謝しつつ、ここに掲載させていただいた。
by nature21-plus
| 2009-09-09 00:03
| 心象をスケッチする
|
ファン申請 |
||