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寒い!
今日は、朝から雪が降ったり止んだり…。外気温を調べてみたらマイナス2℃。これに夕刻から風が出てきて野外での体感温度はさらに下がる。 さすがに寒すぎて、今夜はストーブを点けようかなと考えたが、他に家族がいるならともかく、一人暮らしになんだかそれも馬鹿らしい…!。靴下を2枚に重ねて、上着を3枚にしたら、これでなんとか我慢ができそうだ。ただ、パソコンに向かって、キー操作に手を動かしていると指先に冷えた空気に痛いほどに冷たい…。 ともあれ、このやせ我慢も、一人暮らしの上に「我慢を楽しく遊んじゃおう!」などと、ふざけることが可能な余裕もあって、さらに寒さもそれが可能なレベルだから出きることなのだろう。 かつて、厳冬期の登攀に夢中だったころ、意図して、冬の野外に新聞紙一枚を持ってごろ寝をした。また、耐寒訓練をかねてアルバイトしていた魚市場のマイナス20℃ぐらいの冷凍倉庫の中に、羽毛服だけでこっそり泊まり込んで、翌朝、職員にそれがバレて、たっぷり叱られたなどという馬鹿なこともした。 当然、三千メートルクラスの厳冬期の体験もある。だが、これを「昔、冬山で鍛えていた!」などとは、微塵も考えない。ただ、寒さに対して、「これぐらいの寒さなら、こうすれば…!。」ぐらいを理解する体験をそれなりにしてきたと考えているのだ。たしかに、それは日常的なそれではなく、ある種極限的な状況のマイナス30℃ぐらいの雪の中の話ではあるけれど…。 しかし、だからと言って、意味のないやせ我慢などしているつもりはない。単純に、現在の一人暮らしに、しかも隙間だらけの「倶楽部はうす」の屋根裏部屋にストーブなど点けても燃料費の無駄以外の何ものでもないと思えるのだ。 また、かつてのさまざまな体験から、寒いからといって、なぜ部屋の中に暖房を入れてまで、薄着で居なければならないのだろうとも思えるのだ。当然、これは幼い家族などがあれば言語同断とも言うべき認識かもしれないが…。 「玉井 喜作」という明治の人がいる。 本来的に、わたしなどがブログに記せるレベルにないほどに大きな存在なのだが、なぜか、あまり知られないようだ。 周防国光井村(現・山口県光市光井)の造り酒屋に生まれる。広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、1882年(明治15年)、帝国大学(現・東京大学)医学部予備門に最年少(16歳)で合格する。 1888年(明治21年)4月、予備門の教授や卒業生からの推薦により札幌農学校(現・北海道大学)にドイツ語教授として迎えられたため、札幌に向かう。 札幌農学校では、同僚であった新渡戸稲造や松村松年、高岡熊雄(後に北大総長)などと親しくなったが、晴耕雨読の生活を夢見るようになり、1891年(明治24年)3月に退職し、札幌近郊で農業を始めた。しかしこれは失敗に終わる。そして、これを機に玉井はドイツへ渡ることを決意する。1892年(明治25年)11月17日、玉井は妻子を原田本家に預け、単身日本を発つ。 玉井は下関から釜山を経由し、ロシアのウラジオストクへ向かった。 直接ドイツに向かわずウラジオストクに向かったのは、ドイツまで直接行く費用がなかったために、道中で資金を稼ぎながら、シベリアを横断しようと考えたためだったそうだ。 1893年(明治26年)5月31日、ウラジオストクを出発した玉井は、ハバロフスクからアムール川を汽船で遡上してブラゴヴェシチェンスクに向かった。同地で3週間働いて旅費を稼いだ後、さらに西進する。なおこの時、陸路の多くでは茶を運ぶキャラバンに同行したのだそうだ(当時のロシアはイギリスに次ぐ世界第2位の茶輸入大国であり、その大部分は清からシベリアを経由して輸送されていたのだそうだ)。 イルクーツクからトムスクまでも茶のキャラバンに同行したが、これは厳寒期の過酷な旅であったようだ。気温は氷点下40℃前後、着ている毛皮の外套が凍りついて板のようになることさえあった。またキャラバンは、あくまでも茶を輸送することが目的であり、客でもない玉井は置いていかれることもしばしばで、極寒の中を走って隊を追いかけざるを得ないときもあったようだ。また、道中で盗賊に襲われたということも記録されている。 このような30日間の道のりの末に辿り着いたトムスクでは、トムスク大学や、現地の新聞『シベリア報知』などから支援を受けることができた。このため、以降は鉄道などを使って順調に進み、1894年(明治27年)2月26日、目的地であったベルリンに到着する。日本を発ってから467日目のことであった。 ドイツ到着後の玉井は、その生活の中でドイツ人のアジアに対する知識や考えに誤解が多いことに気づく。これを問題と考えた玉井は、日清戦争が起きたことを機に、ドイツの新聞で日本や清などアジアについての原稿を書くようになり、同時に、ドイツにおける日本についての言論などを日本の新聞社へ送るなど、つまり、ジャーナリストとしての道を歩み始める。また、1898年(明治21年)には、シベリア横断、特にイルクーツク-トムスク間についての記録である『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN(西比利亜征槎紀行)』を刊行した。 同年3月、玉井は月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を発行する。『東亜』は、日本を中心とした東アジアの情勢に関する報道の他、貿易に関する日本の法律のドイツ語訳や、ヨーロッパ在住の日本人の連絡先、ヨーロッパから東アジアに向かう船の時刻表などを掲載するなど、多くの情報を発信した。 こうした玉井の家にはよく人が集まるようになって、ドイツに在留した日本人で玉井の家に行ったことのないものはないと言われるほどであった。このことから「私設公使」の異名をとるようになる。玉井の家に来た人物は寄せ書き帳に一筆するのがしきたりであったが、その寄せ書き帳には、新渡戸稲造、松村松年、高岡熊雄、大島金太郎といった札幌農学校時代の同僚をはじめ、長岡外史、大岡育造、美濃部達吉、後藤新平、長岡半太郎、芳賀矢一、巌谷小波、鈴木貫太郎、川上音二郎・貞奴などといった名前が残っている。 1904年(明治37年)、日露戦争が始まると玉井は、『東亜』誌上で戦争報道などを行なうかたわら、 シベリアから脱出してきた戦争難民への支援や日本赤十字社への募金を呼びかけるなどといったキャンペーンも行なった。 現在、webなどに知ることが可能なデーターは、残念なことにこの程度でしかない。事実は、この途方もない人物には、天才的というよりも、ともすると異常とも言うべきレベルの「語学力」があった。16歳で帝大予備門に合格。その6年後に札幌農大のドイツ語の教授に招かれるあたりがその片鱗を物語るのだろう。 だが、その玉井を「玉井足らしめた」のは、その天才的な語学力だけだろうか。 写真は、わたしが厳冬期の冬山の登山にのめり込んだ時代に出会った「キサク タマイの冒険」の表紙のそれである。つまり、「シベリア横断直後の玉井喜作」の肖像だそうだ。 この写真に出会ったとき、わたしはこの写真の人物がとても日本人だとは思えなかった。ちなみに、このときのわたしは耐寒訓練を意識して、素足に下駄ばき、薄手の羽毛服のしたは半袖のT シャツ一枚だった。 つまり、マイナス40℃はともかく、すでに南アルプスあたりにマイナス30℃ぐらいの体験はあったのだ。そこに、この表紙の人物の身に纏うものを意識すれば、ただ、それだけで尋常ではないし、よもや、そんな環境に日本人がいることなど想像も出来なかったからである。 驚愕ととともに「体験の凄さ」を思った。 玉井の凄さは、シベリアの極限を歩いて越えたさきにあるのだろう。つまり、マイナス40℃を一ヶ月もかけて歩いた体験のさきの自信と自己肯定とである。他者の評価などに惑わない、ある意味「自己実現」にもちかい体験とそこに感じたものさきに、他の誰もが成し得ない、思いもしないレベルに向き合うことが出来たのではないのかと考えるのだ。 たしかに、これだけのアクティビティーに誰でもが容易に向き合えるわけはない。だが、玉井にしても、いきなりこの極限に立ったわけではなくて、誰もが当たり前に体験するようなゼロからの出発がかならずあったはずだ。 そして、たぶんそれは、日常のほんの些細なことであるのではないのか!。 つまり、それは「我慢」か!それとも「やせ我慢」か…!。 ともあれ、寒いから、「灯油を買ってきてストーブを点けよう!」以外の選択肢があっても良いのではないかと思えるのだ。 しかし、こんなつまらない記事に「玉井 喜作」を引っ張り出してしまって…どこからかカミナリが落ちそうな気がしないでもない。
by nature21-plus
| 2010-01-13 22:39
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