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イヴァン・イリイチの「シャドウ・ワーク」を読んだ。
シャドウ・ワークとは、近代経済にともなって発生し、それ自体に賃金が発生することが無いにもかかわらず、近代経済に不可欠な、さながら「影」のような分野の労働のことだとイリイチは定義する。よく例えられるのは「専業主婦」だ。専業主婦という言葉は、社会に近代化が進められたことによって、「家」が、そこに人々が暮らしていくための「生産」するシステムでもあったことをやめ、労働と生活の分離が明確になって、はじめて生まれたのだそうだ。 たしかに、かつて「働くこと」が、そのまま「就職」することではなかった時代、専業主婦などという概念は存在しなかった。そこに女性たちは主婦であり、母であり、また家人とともに「生産する人」でもあったのだ。 イリイチは、現代社会の経済的発展とその生産力の向上と存続のために、女性たちは生産環境から切り離され、「主婦」として「家庭」という新たな生み出された場所に封じ込められたのだという。また「経済」と、その「シャドー・ワーク」という二つの領域は一体をなし、人々の自立と自存の基盤を崩し破壊し続けるとも論じている。そして、彼は、その破壊を止めるために、「ヴァナキュラー」ものの価値こそを重視すべきであるというのだ。 また、「ヴァナキュラーな生活」とは、あるいは「人間生活の自立と自存」と呼ぶべきものであるという。ヴァナキュラーな仕事は、シャドウ・ワークと同じように「支払いのない労働」であるという点で似ているが、前者は「日々の暮らしを養い、改善していく仕事」であり、「民衆」が自ら安定した「自治」を生み出してきた活動であって、後者と区別することが喫緊の課題なのだと…。 そして「ヴァナキュラー」とは、紀元前500年ぐらいから紀元後600ぐらいのローマにおいて「…家庭で育てられるもの、家庭でつくられるもの、共有地に由来するものなど、そのような価値のいずれをもあらわすことばとして使われた。さらにまた、人間が保護し、守ることのできる価値——ただし市場では売買されない——をあらわすことばとしても使われた。…」と使われていたと説明する。 ここまで読み進めてみれば、一人の日本人が脳裏に浮かぶ。日本各地の農村のエスノグラフィーを綴った民俗学者 宮本常一である。自らも農民であった彼は、日本の農村の行く末を案じる人であった。その論文「生活から何が失われたか」において、村落共同体が滅びつつあると叫ぶ。また、「忘れられた日本人」など膨大な著書に一貫して、その村落共同体の中に女性たちがどれほどに重要な位置にいたかについても詳細に述べている。 貨幣経済の暴力的な浸透と、「開発・改良」という名の従来の風土や風景とのバランスのとれた生活環境の破壊、不平等を隠さない教育制度がうみだした歪んだ平均的思考、テレビなどがもたらす「それぞれの地域の暮らしに根ざさない」新しい社会規範。これらすべてが地域社会の自立的性格を破壊し、その重要な運営者たり得た女性たちの居場所までが見失われて、村は滅ぶと論じている。 宮本に問うことが可能なら、彼にとって「ヴァナキュラーな生活」とは「土着の思想」に基づくものだと必ずや断言するだろう。また、そうした認識が価値あるものとされる環境に「女性たちが、その穏やかな関係の相互性に基づいて紡ぐものに委ねられた豊かな暮らしである」というのかも知れない。 写真は、「シャドー・ワーク」の理解のさきに、ここ数日読みふけっている「コンヴィヴィアリティーのための道具」と邦訳されるイリイチの著書である。つまり、「シャドー・ワーク」の理解のさきに、社会が「ヴァナキュラーな生活」を意識するための認識と論理を理解するための著書であると言えるのかもしれない。 イリイチは、「その用いる人々に、その想像力の結果として環境を豊かなものにする最大の機会を与えるもの」をコンヴィヴィアリティのための道具と呼ぶ。そして「コンヴィヴィアル」には「人々が、みんなでワイワイがやがやと楽しく集い…。」といった意味があり、「自立した共生」と訳される。 「…産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対 照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなす ものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的 生産性はどんなに増大したとしても、自身が社会成員間に生み出す欲求を有効にみたすことができなくなる。…自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具は それを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具は自立共生的 な流儀で用いることはできない。…」 イリイチは、つまり「貨幣経済を中心に据えた産業主義的な発展のためのさまざまなもの」に内在する課題に気付き、人々が、本来的な自主自立した「ヴァナキュラーな生活」を取り戻すための認識として、この「コンヴィヴィアリティのための道具」という言葉を使うようだ。 「経済の発展=開発はまた、やがて、商品を買うほかなくなることをも意味した。なぜなら、商品なしで暮らすことのできる条件が、自然的・社会的・文化的な環境から消滅したからである。商品やサーヴィスを買うことができない人々には、環境はもはや利用しえないものとなった。例をあげてみよう。通りはかつてはおもに人々のためにあった。通りはそこで人々がおとなに成長する場所であって、そこで学んだことをとおして大部分の若者は、人生に立ち向かうことができた。その後、通りは乗物での交通のためにまっすぐに作り直された。通りのこの変化は、学校がたくさん建てられて、通りから追い出されたヤングたちを収容するようになるはるか以前に起こった。…私はこの過程を「貧困の現代化」と呼んだ。なぜなら、現代社会では、市場に接近する機会のもっとも少ない者ほど、共用環境(コモンズ)についての利用上の価値に最も近づけない仕組みになっているからである。私はこれを、「ニーズの充足にたいする、商品による徹底した独占」と規定した。…」 その「コンヴィヴィアリティのための道具」という概念の理解のために、いま一度「シャドー・ワーク」に戻ってみれば、イリイチは、すでにその序に「共用地(コモンズ)」や「経済の発展=開発」や「貧困の現代化」という問題について論じているのだ。 そして、興味深いことに、宮本は同じ「共用地(コモンズ)」の変化について「生活になにが失われたか」の中に下のように記す。 「…子供には子供の世界があった。学校からかえれば遊び仲間はいくらでもいた。家に親のいる日でも、親は子供に外に出て遊べと叱ったものである。外には子 供の仲間がどこかで何かをして遊んでいた。道路や浜や、神社や寺の境内はとくによい遊び場で、遊び方は無数にあった。そして遊びのために子供たちの仲間は おのずから秩序ある社会ができていた。私は私の幼少時の思い出についてその女性に話した。…ところがその女性は、「昔はそうだったでしょうが、いまでは道 ではあそべません。親が家にいる場合は学校からかえって来るとすぐ勉強させます。それから子供はテレビをみます。外に出て遊ぶ子はほとんどいなくなったの です」という。…都会の中はともかくとして、村の中では子供たちは子供たち同士で遊ぶことによって、いろいろの遊び方も、生きることの工夫も、共同生活の 尊さも、助け合いも、秩序も学んだのである。学校のグランドではそれは得られない。そういうところでは密接な人間関係が生まれてこない。…」 しかし、これはまさしく保守主義にほかならない。どちらも自立性の基盤を伝統的な思考・習慣体系に見出し、破壊的な流行思想に抗おうとするのである。だけに、イリイチのいう「産業主義的」認識を有益なものと捉える人々には、ただそれだけで反近代的だと拒絶される。 また、時計の針を元に戻すことはできない。失ったものを惜しんで泣いても無駄だ。われわれはすでに、そうしたものが失われた時代と社会に生きており、この「用意された」貧しい現実に生きるしかないのだなどと、真っ向からこのイリイチの論理に反対する人々もあるようだ。 しかし、その大半の学識ある賢者たちは、事実を、自ら体験的に理解しようとは企てない。その理解のすべてが「所与の認識に基づく調査研究」レベルに止まるのだ。つまり、事実を見極める「実践的な検証」がまるでない。 イヴァン・イリイチは、どこかのアカディミックな研究環境にその人生を過ごしたわけではない。また、この国を北から南まで二十数回を歩いた宮本についても同じことが言えるだろう。 ともに、大きな実践のさきにたどり着いた認識が「保守主義的」に理解することも可能なだけであるのだろう。 事実として、われわれが、見つめなければならないものとは、近未来の「持続可能な社会」の構築のために「現代という混乱する時代の事実に気付くこと」であるはずだし、その気付きのために「コンヴィヴィアリティのための道具」こそを手にするべきであるはずだ。 イリイチは言うのだ!。 「ヴァナキュラーな生活」とは、あるいは「人間生活の自立と自存」と呼ぶべきものであると…。
by nature21-plus
| 2009-11-22 00:03
| 野外体験産業研究会
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